【簡単にわかる伊豆特急と特急踊り子の歴史~国鉄時代の1928年~1981年にかけて】特急踊り子を追いかけた⑬

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「伊豆特急と特急踊り子の歴史」が簡単にわかる!2回に分けて書いた。今回は前半。国鉄時代の1928年~1981年にかけて185系と今の特急踊り子が登場する前の事について。戦前には既に首都圏から伊豆への優等列車は運転開始!戦時中の運休期間を経て、戦後まもなく「いでゆ」「いこい」から復活!以後準急として多種多様な列車が登場!1960年代には今の185系やE257系とスピードが大きく変わらなかった?!伊豆急行の開業では「伊豆戦争」があった!東海道新幹線の開業で大きく状況が変わり急行が運転開始したのは1964年の東京五輪(東京オリンピック)が影響していた?!初めて登場した特急は157系特急「あまぎ」でこれがスゴイ!1981年急行を置き換えるために登場したのが185系と特急「踊り子」だった!などなど国鉄時代から話が面白かった!🤣

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前回までの続きは下記をクリック

【2020年12月乗車記と乗り鉄/実は50年選手!伊豆急行8000系普通列車に乗る】特急踊り子を追いかけた①

【2020年12月撮影記と撮り鉄/断崖絶壁の伊豆北川駅からE257系2000番台を撮る】特急踊り子を追いかけた②

【2020年12月撮影記と撮り鉄/THE ROYAL EXPRESSと185系を片瀬白田駅で撮る】特急踊り子を追いかけた③

【2020年12月撮影記と撮り鉄/伊豆急行線超有名場所(片瀬白田~伊豆稲取)185系等撮る】特急踊り子を追いかけた④

【2020年12月乗車記と乗り鉄/特別な特急踊り子?!2100系リゾート21「黒船電車」】特急踊り子を追いかけた⑤

【2020年12月撮影記と撮り鉄/超大物新人!E261系特急サフィール踊り子登場!】特急踊り子を追いかけた⑥

【2020年12月乗車記と乗り鉄/国鉄の雰囲気を忠実に残す185系特急踊り子16号に乗る】特急踊り子を追いかけた⑦

【2021年2月乗車記と乗り鉄/伊豆箱根鉄道駿豆線185系特急踊り子3号に特急券なしで乗る】特急踊り子を追いかけた⑧

【2021年2月乗車記と乗り鉄/185系が三島駅で伊豆箱根鉄道→JR線の渡り線を通る】特急踊り子を追いかけた⑨

【熱海駅で185系を連結!傍若無人な撮影会/なぜジャンパー線の接続をするのか?】特急踊り子を追いかけた⑩

【伊東線の来宮駅は穴場的な撮影地!E261系サフィール踊り子から211系JR東海車両まで】特急踊り子を追いかけた⑪

【2021年2月撮影記/伊東線の網代駅で185系やE261系等を撮る/ホームに時刻表がない!】特急踊り子を追いかけた⑫

もくじ

★簡単にわかる伊豆特急と特急踊り子の歴史😆今回は「前半」として国鉄時代(1928年~1981年にかけて)😆

↑2021年3月12日(金)をもって185系特急踊り子は定期列車から引退する事になった😭185系と言う車両はJR東日本では異例の”長生き”で1981年の登場から約40年に渡り、基本的に姿・形を変えずに活躍した😆全国的に見てもこれだけの間「ほぼ原形を維持した鉄道車両」と言うのは非常に珍しい😆

2021年3月13日(土)からは特急踊り子シリーズ、すなわち東京から伊豆を結ぶ特急は全列車全席指定となった😩いわゆる「スワローサービス」が伊豆特急でも始まったという大きな歴史的な転換点にもなった🥳この機会に伊豆特急と特急踊り子の歴史について簡単に説明する😆

本当の所は”みなまで”説明したいのであるが、調べてみると今の特急踊り子の原型となる列車は戦前から存在😲ここから現在(2021年)のE261系サフィール踊り子までの壮大な歴史を説明すると、それこそ1冊の本が出来てしまうほどのボリュームがある😵この記事も長めの文字量(約14,000文字)で構成している😳短く書こうと思ったが、取り上げないとならない史実が多かった😩それでも比較的簡単に説明したつもりである😅

伊豆特急と特急踊り子の歴史を”みなまで”知りたい向きの人も読者諸氏の中では多いと思うが、”みなのみなまで”書くと書く方も読む方も大変になるので、”みなのみなまで”知りたい人はそういう専門書などに譲る😅今回の当ブログ記事では私がピックアップした内容を中心に簡単に説明する😅そのため内容に偏りがある点(取り上げない項目もある)はご了承願いたい😅

★戦前からあった東京と伊豆を結ぶ列車😆

「踊り子(列車」(Wikipediaの記述、戦前部分から)

↑これを参考に展開する。それ以外にも「Rail Magazine」の別冊で2021年2月に出版した「永久保存版185系踊り子最終章」、「鉄道友の会静岡支部の会報」(非売品、同支部所属の会員に定期的に配布される冊子、私が持っている2019年からの約2年分)も参考にした。

伊豆特急と特急踊り子の原型となる列車は1928年(昭和3年)から運転開始された😲当時は東京~熱海間の準急(今で言う快速に相当)が1日1往復であった。以後本数の増加で発展してゆくのである。

1934年(昭和9年)までは国府津~熱海間は「熱海線」と言う東海道本線の支線的な扱いだった🙄では国府津からの東海道本線は?🤔と言うと、今の御殿場線ルートであった😲しかし御殿場線は国府津から御殿場に向かって(または沼津から御殿場に向かって)断続的な登り勾配なのは今も昔も変わらない😩今の313系のような高性能電車ならばそんなに苦労がないようだが、この当時はSL(蒸気機関車)がまだまだ多い時代😆勾配が特にキツイ山北駅では機関車の付け替えが必須で「鉄道の町」として発展した歴史を持つのは知っている人も多いだろう😆

東海道新幹線は1964年(昭和39年)の開業なので、それまでは東京から西日本への優等列車はほとんど東海道本線を経由していた😆”難所”である御殿場越えはスピードアップを阻害するのは言うまでもなく、機関車の付け替えと言う余計な手間も発生する😩そこで御殿場越えをせずに平坦なルートとして熱海経由の鉄道が建設された😆

しかし1928年当時は熱海までしか鉄道が出来ていなかった😨今の伊東線は1938年(昭和13年)の開業であった😨熱海~函南間に約7キロの丹那トンネルが完成したのは1934年(昭和9年)😆この時に国府津~熱海間の「熱海線」は「東海道本線」に編入され、東京から西日本方面への優等列車は御殿場越えが不要になり、熱海経由になった😆これによりスピードアップと距離の短縮(熱海経由の方が約10キロ短い)も図られた😆同時に御殿場越えの路線は「御殿場線」に改称され、こちらが東海道本線の支線的な扱いになった😅

これは余談だが、今の御殿場線は全線単線だ😫東海道本線であった時代は全線複線であった😱なぜ単線になったのか?と言うと、戦時中「鉄」が不足したため単線分のレールを撤去し、「鉄」を別の場所で使ったためだ😨この「鉄」は山口県の岩徳線のレールとして転用したと言われている😲戦後御殿場線は複線に戻される事はなく、単線のまま今に至る😫御殿場線に乗ると「トンネル跡」「鉄橋跡」等の遺構が目に付くが、これこそ複線時代の名残である😱

伊東線は1938年に開業したと述べたが、それと同時に運転区間も延長になり、東京から伊東までの運転となった😆丹那トンネルの完成で国府津~熱海~三島~沼津が東海道本線になったため、丹那トンネルを越えて三島・沼津に向かうのも必然的な事で、既に戦前の段階で東京~沼津間の準急もあったという😲

しかし、1937年(昭和12年)からの日中戦争の影響で運行体制は縮小される😫段階的に伊豆方面への列車を取り止める事になる😫これは今のCOVID-19のような疫病による旅客数の減少が原因ではなく、「戦時体制」と称する特別輸送体制を敷いたある意味国策的なものによる😫戦争では大量の物資と人員を各地へ輸送しないといけなくなる。「大量輸送」が発揮出来るのが鉄道の特性でもあるが、皮肉な事にそれがガッツリと活用される事になってしまった😫この後は戦後まで約10年ほど途絶える事になる😫😱

★終戦直後の「いでゆ」「いこい」から復活😆

「戦時体制」と称する特別輸送体制を敷いた戦時中😫1945年(昭和20年)8月15日終戦😞それから徐々に元に戻る😆1949年(昭和24年)2月に東京→伊東間で土曜日に限り1本だけ設定された「単なる準急」が事実上の伊豆方面への列車として復活したと言える。特に列車名はなく単なる「準急」であった😩世間一般的には「湘南準急」と言われていたという😲

「準急」と言う種別は今や一部の私鉄に設定されているだけだが、この当時の国鉄における「準急」と言うのは「急行よりも遅い列車」を示す😅急行と比べれば速度が遅く、設備も劣ったため、お客から徴収する料金を安くしたのである😆サービスレベルにあった付加価値と言えるのかもしれない😅

伊豆箱根鉄道駿豆線への乗り入れもこの時からで、1949年4月からと歴史がある😲後術するが伊豆急行線への乗り入れの方が後からの開始となる😲

1949年10月からは伊東→東京間の日曜日に1本だけ準急が運転されるようになった😲つまり土曜日の準急で東京から伊東(伊豆)に遊びに来て、日曜日の準急で伊東(伊豆)から東京へ帰るという、今や定番の旅行スタイルを築く試金石になったのかもしれない🥳その時にナント!列車名が設定された😆それが「いでゆ」である😆

一方で土曜日の東京→伊東間の土曜日に1本だけの準急も名前が付くようになり、こちらは「いこい」となった😆

★東京から伊豆への列車「華麗な歴史」が始まる🥳「あまぎ」は準急ながらもスピードは今の185系・E257系と大きく変わらなかった🤣

1950年(昭和25年)10月、東京~修善寺間に「あまぎ」が登場😆この列車は準急と言う種別で、当初は客車を使っていたがしばらくして80系電車に置き換わる😆実はこれが「湘南電車」のルーツであった😆

とは言っても一気に全て電車に置き換わるわけではない😩このころ東京→伊東間で新たに「はつしま」と言う準急も週末に登場したが、こちらは客車による運転でスピード、旅客サービスと言う面では明らかに電車の「あまぎ」よりも劣っていた😩

「いでゆ」は元々伊東線系統の運転だったが、この時に修善寺まで運転されるようになる😆この「いでゆ」と「あまぎ」は準急ながらもスピード面で言ってしまえば、もはや特急並み😆当時の”名特急”「はと」(東京~大阪間で運転)とほぼ同じスジ(ダイヤ)で運転出来た😲東京→熱海間が1時間29分、東京→伊東間が2時間03分!😲今の185系やE257系の特急踊り子と大きく変わっていないのだ🤣そのため庶民からは「湘南特急」とも言われるようになったとか🤣

しかし修善寺に乗り入れる「あまぎ」は長続きしなかった😨1953年(昭和28年)には「伊豆」へと改称された😲これが185系登場までの約30年続く事になる😲なお「あまぎ」自体は列車として存続し、運転区間が新宿~熱海間に変わった。これ以降も「たちばな」「十国」「おくいず」「ちよだ」等の列車が登場する事になる😵

これについては1つずつ説明すると長くなるので省略するが、東京から伊豆への列車で多様化が進むキッカケになる😵これは運転区間、サービス、スピード、使用する車両等の違いにより、それらに応じて列車名を付けた結果である😵

また、今では考えられない事であるが、名古屋・東海地方から伊豆へ直通する優等列車があった😲例えば「中伊豆」は昭和30年代から存在していたが、1965年(昭和40年)10月のダイヤ改正でそれまでの名古屋~沼津間の定期準急「するが」が季節準急に改めらた。つまり臨時列車化である。その際に運転区間を大垣~修善寺間に変更し、1966年(昭和41年)3月のダイヤ改正で定期列車の「中伊豆」になった経緯を持つ😲しかし、定期列車としては短命で😩1年半後の1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正で「しゅぜんじ」と言う臨時列車に格下げされて、その1年後には消えている😱

名古屋から伊豆への優等列車が短命だった理由は、やはり東海道新幹線の存在である😅1964年(昭和39年)には既に東京~新大阪間で開業しており、この際に東海道本線の優等列車はある程度整理されたが、今の整備新幹線(例えば北海道新幹線や北陸新幹線の新規開業)のように開業と同時に並行する在来線の優等列車全廃と言う考えはそもそもなかったのだ😆その考えが出て来たのは1997年(平成9年)に開業した長野新幹線以降である😅

お客が名古屋・東海地区から新幹線で熱海まで行って(三島駅は1970年の開業)そこから伊豆各地へ向かう列車への乗り換えへと乗り方が変わったのだ😲今言われればそれは当たり前であるが、この当時は「夢の超特急」と称する”魔法の乗り物”に乗りたい人が多かったし、何時間もボックス席基本の急行に揺られるよりは、速く快適に移動したいというニーズが既にあったのだ😲

他にも「ごてんば」と称する東京~国府津~御殿場間の急行もあったが、1968年(昭和43年)に御殿場線の松田駅に小田急線との連絡線路をを使って、小田急との直通列車が名車中の名車である小田急ロマンスカーSE車化されると早くも「勝負あった」感じで、首都圏から御殿場への鉄道移動は小田急線+御殿場線が一般化した😆それでも「ごてんば」自体はしぶとく生き残り、段々と本数を減らしながらも1985年(昭和60年)のダイヤ改正で廃止になるまで列車として存在したのも特筆すべき点である😆

話は前後あるが、その中で大きな変化と言うのが1959年(昭和34年)で、元々準急は自由席が基本だったが、この時から全車座席指定に発展する😲種別は準急のままである😅さらに車両を80系→153系にも更新した🥳153系時代も比較的長くて、185系が登場する1981年まで活躍した🤩わずか期間であったが185系と153系の併結運転も行われた事は貴重な「記録」でもあり「歴史」でもある🤩

★伊豆急行線の開業🥳

↑伊豆急行線の開業は1961年(昭和36年)12月10日であった🥳既に戦前の段階で伊東までの列車が運転されていたにも関わらず、伊東~下田間については鉄道が出来ていなかった😩伊豆に行くとわかるが、伊豆はジオパークに認定されるほど複雑で険しい地形をしている😖結果的に伊東~下田間に鉄道を敷くとは言っても、難工事になる事は確実で、そもそもどこを通すのか🤔がポイントだった。

当初は国鉄の手で建設工事を行い、国鉄線として開業させることにしていたが、その頃東京急行電鉄(東急)や西武鉄道が自社の伊豆への進出を企てた😏具体的には自社グループで土地を確保し、そこに分譲住宅、ホテル、観光施設を作って、社員の福利厚生はもちろん、観光客を広く首都圏から集客し、そうする事で自社のブランドイメージを高めて、自社の直接の沿線(東横線、西武線など)への人口増加や自社線の鉄道利用向上が大きな目的である😏

しかし、伊豆のどこに自社の土地を獲得するのか?🙄この事で縄張り争いが起きた😖この事を「伊豆戦争」と言う😱首都圏から多くのお客を運ぶためには鉄道が必要😰しかも両社とも本業は鉄道会社なので、自社線(若しくは関連会社)の鉄道が欲しかったのは言うまでもない😵そこで最も速く動いたのが東急であった😲1956年(昭和31年)当時東急の社長を務めていた五島昇が中心になって、伊東~下田間で鉄道を作るという申請を国(運輸省)に行った😏工期はわずか2年で、建設費は約47億円、全額東急が出資した🤑さらに下田~石廊崎までの約15キロの鉄道建設も計画した🥳但し下田~石廊崎間の鉄道は建設される事なく、「未成線」で終わっている😫今は伊豆急下田駅から路線バスに乗り換える事になる😅

この事を知った西武も黙っていない😒同区間に鉄道を作る申請を伊豆箱根鉄道(この当時から系列会社)に無理矢理行わせたが、結果的に失敗に終わる😩そもそも建設条件として国が示したのは、「早期に着工・完成させること」「国鉄の規格に準じて建設すること」「国鉄が列車の乗り入れを求めてきた時は応じること」「国鉄が買収を求めてきた時は応じること」であった😏それを満たすように西武が準備出来なかったのが敗因と言えるだろう。

今の伊豆急行線の河津~伊豆急下田間は稲梓・蓮台寺経由の山側を通る路線になっているが、これは西武の仕業である😒元々東急は河津~下田間は海沿いの経路で鉄道を敷こうとしたが、その土地の一部を西武が無理矢理確保して、自社グループのホテルを作ってしまった😱仕方なく西武の支配下になっていなかった山間部を貫くルートを東急が土地を確保して、なんとか下田までの鉄道開業にこぎ着けた😌

そして1961年の開業時、東京からは準急「伊豆」「おくいず」が伊豆急行線に乗り入れた😫「あまぎ」は新宿~熱海間の運転に縮小されていたが、1963年(昭和38年)12月から伊豆急行線への乗り入れが始まった😆

★伊豆への「急行」の登場は東海道新幹線と東京オリンピック(1964年)が関係していた?🤩

↑伊豆の列車を語る上で東海道新幹線の存在が大きく影響する。この点は一部前述したが、1964年(昭和39年)10月1日に東京~新大阪間の515キロ(実キロ)で一気に開業した😆これは1964年の東京五輪に合わせたものであったが、当時開業したばかりの「新幹線」なる”魔法の乗り物”は一般庶民が使うには相当ハードルが高かった😫そのため伊豆系統の優等列車にも臨時的に増発が行われた😆

それが「オリンピア」と称する151系を使った全車座席指定の急行である😆鉄道友の会静岡支部の会報では過去の懐かしい写真を紹介するコーナーがあるが、そこにもフルカラーの「オリンピア」が掲載されていた😲貴重なものを見る事が出来た😆「オリンピア」は東京五輪開催中の1964年10月3日~10月25日に限り東京~熱海間で臨時的に運行された列車で、伊豆方面への列車として初めて設定された「急行」である事は記録にも記憶にも残るエポックメーキング的な事になった🥳

なお151系と言われる車両は特急型車両で、俗に「こだま形」とも言われた😆派生して161系や181系となった。国鉄型特急の礎を気づいた車両と言っても良いのかもしれない。この系列車両は1982年11月14日(つまり東北・上越新幹線開業前日)までに定期列車から引退し、1986年(昭和61年)に全て廃車(他形式への編入車を除く)となっている😞そのため1987年(昭和62年)に発足したJR各社へは1両も継承されていない😫昭和後半から平成生まれの読者諸氏にとっては馴染みが薄い車両だ😞私もその1人であるが、今やさいたま市の鉄道博物館で保存されており、いつでも往年の姿を見る事が出来る😆

151系は当時新幹線開業で不要になった車両で、余っていたので臨時列車に活用した形である😫これは2021年3月に定期列車から引退した185系も同様で、完全に廃車になるまでは一部車両が臨時列車として活用される事になっているので、多少違う形ではあるが「歴史は繰り返す」のである😅

★首都圏から伊豆への優等列車は国鉄時代から常磐線や日光に直通していた😲

今や湘南新宿ラインや上野東京ラインと称する列車により、東海道本線は何が何でも全ての列車が東京駅発着、逆に東北本線(宇都宮線)、常磐線、高崎線は何が何でも全ての列車が上野駅発着と言う、1丁目1番地的な常識は既に過去の物になっている😫

私も「青春18きっぷ」等を使って熱海駅から東海道本線の普通列車に乗る際、行き先表示を見ると「東京」と言うのは非常に少数で、ほとんどが「宇都宮」「小山」「古河」「前橋」「高崎」「籠原」と言った北関東の聴き慣れない駅名が並ぶのが当たり前になった😫逆に言えば熱海駅から乗り換えなしで北関東まで行けるため、グリーン車で3時間も4時間も乗れるという乗り方が実現している🥳

ダイヤ的に言ってしまえば、元々の東海道本線の列車と東北本線・高崎線の列車を1つに合体した形に過ぎない😅湘南新宿ラインや上野東京ラインが出来れば、そのような運転体系になるのはもはや必然である😅これが本格化したのは2015年(平成27年)3月のダイヤ改正からであるが(それ以前にも湘南新宿ラインを介した直通はあったが、それでも基本は東京・上の発着だった)、「乗り換えなしの直通需要」は昭和の時代からあった😅

首都圏から伊豆への優等列車運転開始後から首都圏側の起点となるのは東京駅だった😳これは今の「サフィール踊り子」等の”踊り子シリーズ”の特急であっても変わりない事であるが、臨時列車でありながらも常磐線や北関東(日光)への直通もあった😲しかもそれが結構歴史がある😲

原型となったのが「湘南日光」「常磐伊豆」と称する列車であった😆この当時は東京駅経由での運転であった。「湘南日光」は1961年(昭和36年)4月に日光~伊東間で157系として運転開始。その後165系に車両が変わり、元々は往復運転だったが1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正で日光初の片道運転に格下げされて、1970年(昭和45年)10月のダイヤ改正で廃止されている😞

一方で「常磐伊豆」は1966年(昭和41年)10月のダイヤ改正で登場😆常磐線側の運転区間が長い事も特徴で、平(今のいわき)発着だった😲伊豆側は伊豆急下田や修善寺までの運転とかなり長い距離の運転だ😆となると茨城県から宮城県にかけての常磐線は交流電化なので交直流電車が必要だ😅そこで用意されたのが451系、453系と言われる車両であった😆しかし、列車番号は一貫して臨時列車を示す8000~9000番台で、週末中心の臨時列車であった😲定期列車に格上げされる事はなく😫1972年(昭和47年)11月に廃止されている😞

以後国鉄が幕を閉じるまで東京駅から先も運転する優等列車は設定されなかった(私の調べた範囲では)😫再びそれが登場するのはJR発足後まで約15年待つ事になったのも特筆すべき点であろう😫

★いよいよ「伊豆特急」が登場🥳第一弾は「特急あまぎ」だった🥳

今や伊豆への優等列車は「特急」である”踊り子シリーズ”が当たり前となっているが、上記で述べた列車は全て「快速」か「準急」か「急行」であった😱

1969年(昭和44年)4月、東京~伊豆急下田間にいよいよ「伊豆特急」が登場した😆🥳その名も特急「あまぎ」である🥳当時の使用車両は157系であった😲この車両は急行型車両にカテゴリーされるようだが、車内はリクライニングシートや回転クロスシートを搭載しているため、実質的には特急型車両と言っても良かろうか🤔1959年(昭和34年)~1963年(昭和38年)にかけて31両だけしか製造されなかった少数派である😫

いわゆる「日光形電車」とも呼ばれていた。これは東京~日光への優等列車で使用する車両として開発された経緯を持つ。昭和の時代は国鉄と東武鉄道の間で激しく旅客の争奪戦を繰り広げた事は非常に有名な話で、両社とも当時としては破格な車両を投入した🥳今やこのような事は「過去の話」で、2006年(平成18年)からは”犬猿の仲”とされていた国鉄→JR東日本×東武が直通運転を始めている🥳これは時代の大きな変化に伴うもので、ケンカしている時代は終わったと言える😌

157系自体は1961年から「湘南日光」として伊豆地域には乗り入れていた😲入線実績自体はあったのだが、さまざまな変遷を経た上で1969年から伊豆への定期列車にコンバートされた😲その際に「あまぎ」と言う特急列車を新設したのだ🥳とは言え、今の”踊り子シリーズ”のように本数が多いわけではなく、1日に定期列車が2往復、季節列車が1往復、臨時列車が1往復だけだった😩それもそのはずで31両しかないのであれば、そんなに多くの列車を運行する事は出来ず、本数が限られてしまうのは致し方無い😞この体制は1981年(昭和56年)に「あまぎ」が廃止されるまで約12年変わる事がなかった🙄

【157系の引退😞】

これに付いても述べておく必要がある。「あまぎ」として登場した時点で157系の登場から10年程度しか経過していなかったが、登場時から酷使された使い方をされており、基本は東京~日光の列車だったものの、これが東京~大阪、東京~中軽井沢(信越本線”横軽”経由、中軽井沢駅は1997年からしなの鉄道の所属)、東京~長野原(今の吾妻線長野原草津口)、そして東京~伊豆急下田とあっちに行ったり、こっちに来たり走りまくったのである😵

鉄道車両もクルマと同じで、累計走行距離が伸びてしまえば寿命も短くなってしまう😵例えばかつてJR東海に371系電車は連日長距離運用で、晩年(2010年頃)には乗り心地として「あ~疲れた😩」と言わんばかりだった😩需要や営業と言う側面もあったが、登場からわずか21年後の2012年(平成24年)には定期列車から引退し、2014年(平成26年)にはJR東海管内から引退した😞今は姿を変えて富士急行の8500系として乗る事が出来る😆

これに近い今現在(2021年4月)の現役車両がJR北海道のキハ283系で、連日1,000キロ以上の運用をこなしているため、「もう~休みたい😩」と言わんばかりの乗り心地だ😩車齢は25年ほどであるが、走行距離数からする実質的な年齢はこれよりも10年近く多いと言われている😩JR北海道は2023年までにキハ283系を引退させる方針だ。

私は157系と言う車両をリアルタイムで見た事が無いので、細かい車両運用等の事はわからないが、登場からわずか20年弱の1981年の段階で引退に追い込まれたという事実は「相当酷使されていた」と察する事が出来る😩車両の状態さえよければまとまった両数がJR東日本に継承されていたかもしれないと思うと残念だ😞

157系の老朽化の原因は走行距離もあるのかもしれないが、「185系踊り子最終章」と言う本によれば、大きな下降式窓の構造に欠陥があり、車体鋼体の側面下部に水が溜まって側面腐食が激しかった事とされている😲要するに「欠陥車」だったのか😱車両数が少なかった事も影響しているとも書いてある。

157系の引退は営業的な側面や時代のニーズに応える面もあったかもしれない🤔この時の事を「185系踊り子最終章」から拾うと、そもそも伊豆への旅客需要が減少し始めていた😩乗り入れ先の伊豆急行線は1975年(昭和50年)に年間996万人の利用があったが、これがピークの利用者数だった😱2017年(平成29年)には489万人と半減した😱

これはオイルショックの影響、東伊豆での群発地震の影響、そして旅行形態が今までは事前に準備する団体旅行・慰安旅行→個人旅行が変化した事が大きい😵「スーパービュー踊り子」や「サフィール踊り子」の車内を見るとわかるが、大人数で利用する事を前提にした車内にはなっていない😞たくさんの座席を設置すれば良いのに、それを放棄して「プレミアムグリーン車」のように1両に乗せる事が出来る人数を減らしたりしている。一応は4人までのグループに対応した個室もあった(ある)ものの、利用の主体は団体乗車券の発行基準に満たない8人以下が大多数で、1人で乗るというお客も少なくない😫

157系は1975年頃には既に老朽化が深刻だった😫まず153系付属編成(修善寺行き)の一部で見られたグリーン車付き編成を廃止したのもこの頃だったという。同時に伊豆箱根鉄道駿豆線ではグリーン車付きの列車が消えたため、グリーン料金も自然消滅した😫

伊豆箱根鉄道駿豆線では普通車については、鉄道友の会静岡支部の会報によれば1979年(昭和54年)以降は特急(急行)料金を徴収しなくなったという。それが2021年3月12日まで約40年以上も続いた😲

157系の「あまぎ」は1976年(昭和51年)3月までに全廃された😱新造された183系1000番台が「あまぎ」として運転を開始🥳しかし183系の時代は決して長くなく、「踊り子」で走った時代も含めれば定期列車での活躍は1985年(昭和60年)までであった😞以後は臨時列車やイベント列車として散発的に運行する事が続いた。

★昭和から平成、そして令和に続く栄光の「特急踊り子」時代の幕開け🥳🤩

ここまで長く特急踊り子として登場するまでの事について説明した🥳これでもざっと1万文字はある😵出来る限り簡単に説明したつもりだが、トピックと説明を加えればどうしても文字量は増えてしまう😵それが「歴史」の記事なのかもしれない😅

特急「あまぎ」として183系1000番台に置き換わったが、前述の通り長く活躍は続かなかった😫157系があった時代からそうだったが、伊豆への優等列車は「あまぎ」以外にも急行の「伊豆」「おくいず」も存在した😲特急+急行の優等列車が共存する形で、少ない本数の特急と多い本数の急行が実態だった😲これは伊豆に限った事ではなく、国鉄時代は全国的に見られた現象である。急行が極端に少なくなり、それが特急に格上げされたり、逆に快速や普通に格下げされたのはJR発足後である😞

特急は「特別急行」の略でつまり「特別スゴイ急行列車」だったのだ🤣そういう特別な列車は地域や路線によっても差はあるが、本数・車両のグレード・乗車料金・速達性等さまざまな面からしても特別な存在だったのは言うまでもない。本数も決して多くなかった。今で言う「新快速」のような速達列車が「急行」で、車両のグレードもボックス席が基本だった😅本数・運行路線の数で言えば「全国をカバーしていた」と言っても過言ではない😆今の「新快速」(等の快速列車)との違いは、別途急行料金が必要🤑言うまでもなく「青春18きっぷ」では乗れない😒すなわち、特急「あまぎ」と言う”化け物列車”が登場していたものの、首都圏から伊豆への優等列車の基本は「伊豆」「おくいず」と言った急行が中心だったのだ。

1976年(昭和51年)に「伊豆」の全車指定席制度を解除する事になった🥳つまり自由席の設定である😆当時は「おくいず」には既に自由席があったようで、これで「伊豆」との格差が消えた😆そのため「おくいず」は「伊豆」へと”吸収合併”された🤣

【急行「伊豆」で使う車両の置き換え🙄】

急行「伊豆」で使う車両は153系を使っていたが、東海道新幹線開業以前から走っていたため、それなりの年数が経過していた😩そうなれば新車となるのだが、特急あまぎのように簡単には進まなかった😩

その理由は、「伊豆」として使用する前に東京にある田町電車区から車両を熱海や伊東等に移動させる必要があるが、その際に間合い運用として普通列車に充当していた🥳いわゆる「乗り得列車」の原型とも言えよう🥳

しかし、間合い運用する時間帯と言うのは朝の混雑時間帯で、流石に183系のような2ドア、ドア口が狭い車両は使う事が出来なかった😰この辺は説明しなくてもわかるだろう😅そのため「普通列車にも使えて、急行にも使える新型車両」が当時の国鉄は欲しかったのである😳単純に考えればボックス席主体の急行型が新型車両として登場しそうな感じでもあったが、当時の国鉄は「伊豆への新型車両は特急に格上げする😏」と言う方針を示した🥳

既にモータリゼーション(自動車社会)の進展により、首都圏から伊豆への移動も鉄道ではなく自動車に変化😫さらに毎年のようにあった労使間の戦いであるストライキ等の労働争議も盛んに繰り広げられており、お客にとってみては「いい加減にしろよ😤😒」と怒り心頭であった。いわゆる「国鉄離れ」も進み、国鉄の赤字は増えて利用者数もさらに減る😫毎年のように運賃値上げも繰り返され、国鉄の評判は非常に悪かった😒

さらに地方に行けば赤字路線の廃止も行われていたが、地元は認めるわけがない😒国鉄を解体するという話もチラホラ出ていたので、そうなってしまったら”たまったものではない”😨「ここは何としてもサービスレベルをアップします😰」と必死だったのだ。そのような背景からすれば、今までのボックス席主体の急行よりは、快適な座席を持つ特急にしてしまった方が良いに決まっている😆急行「伊豆」は廃止して、全て特急に変更してサービスレベルアップを図ろうとした作戦だ😆だが、現状では普通列車の間合い運用もやらなければならない😨だったら、普通列車から急行・特急まで対応出来る車両を作ってしまえば良い😆となった。これが185系登場の経緯である😆

「185系踊り子最終章」の誌面では当時の国鉄東京南鉄道管理局の苦労話が多数掲載されているが、ここからも185系の登場ヒストリーは貴重な内容が詰まっている😆これについて述べると余計に長くなるので、この記事では述べないことにする😫気になる読者諸氏はこの本を買ってじっくりと読んでいただきたい。

【185系が登場🥳🤩】

1981年(昭和56年)3月、185系がいよいよ登場した🥳しかし、これは「暫定的な登場」であった🤔と言うのも、一気に大量に新型車両を用意出来なかったためである😅そのため段階的に古くなった153系を置き換える事になった😆

実際の車両運用では185系の歴史にとって「記録にも記憶にも残る」衝撃的な事が行われた😲それはまだまだ多く残っていた153系や165系との併結運転を行ったのだ😆185系に併結運転に必要な機械を搭載する事で実現した😆今の「踊り子」でもそうだが、車両の前側は伊豆急下田行き、後ろ側は修善寺行きと分かれており、ダイヤ的に東京~熱海間は「二階建て列車」だったので、車両が新しく置き換わっても古い車両が残る限り、新旧車両の併結は必須だったのだ😆

しかし、185系が日に日に増えてきて、逆に153系等の古い車両が減るとそのチャンスも少なくなった😨結局185系と153系の併結運転は1981年の3月~9月限定であった😲

【特急「あまぎ」+急行「伊豆」を合体して特急「踊り子」がついに登場🥳🤩】

1981年10月のダイヤ改正で首都圏から伊豆への優等列車は特急「踊り子」がついに登場🥳🤩

形としては特急「あまぎ」+急行「伊豆」を合体🤩新しい列車の名前として「踊り子」になった🤩言うまでもなく川端康成の有名な小説『伊豆の踊子』にちなんでおり、一般公募で決定🤩

目的としては急行「伊豆」の発展的解消と言う面が強い😆東京~熱海間では停車駅を極端に絞る事は一部列車を除きやらず、急行「伊豆」の停車駅にも引き続き止まるようになった。そのため現在(2021年4月)の特急踊り子でさえも東京を発車すると、品川、川崎、横浜、大船、小田原、湯河原、熱海と停車が続くのはこの名残である😅

そのため車両が新車の185系に変わったものの特急「あまぎ」と比べれば大幅なスピードとはならず、東京~伊豆急下田間で特急「あまぎ」で2時間30分前後だったのが、停車駅が増えたせいで特急「踊り子」では2時間45分前後となった😏これは停車駅が増えたので致し方無い😞なお、この所要時間は2021年現在も大きく変わっていない😇

★まとめ~「伊豆特急と特急踊り子の歴史」は国鉄時代からJR時代に話が続く😅

↑実は今回の「伊豆特急と特急踊り子の歴史」は1本で終わらせる予定だった😅しかし、実際に作成すると「簡単に説明する」と言いながらも、取り上げないとならない項目が非常に多く、一部は掲載を省略したが相当なボリュームになった😲ここの時点で14,000文字である😱

「伊豆特急と特急踊り子の歴史」については、むしろ戦前や戦後間もない時期よりは、特急踊り子と185系の活躍が主体だった時代、すなわち1981年~2021年にかけて振り返りたいだろう🥺この事も1本の記事にしてしまうと、書く方も読む方も大変になるため、今回は「前半」として国鉄時代の歴史について簡単に振り返った😳次回は「後半」として国鉄末期からJR時代に入り、令和の今に至るまで、これも簡単にだが「伊豆特急と特急踊り子の歴史」について述べたいと思う😆

14回目に続く(下記リンクをクリック、5月5日に公開)

【簡単にわかる伊豆特急と特急踊り子の歴史~国鉄・JR時代の1981年~2021年にかけて】特急踊り子を追いかけた⑭

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