【88年の歴史に幕を閉じる瞬間!江津発浜原行き9431D最後の営業列車が発車】三江線廃止までの”参考”になる記録81
もくじ
★さぁ、どうする?!江津発浜原行き最終列車に乗る事にしたか?
【日付】2018年3月31日(土曜日・最後の日)18:00~19:30
【場所】江津駅発の最後の三江線列車、9431D浜原行きの最終列車を見る
前回の続き。
三江線最後の三次行きである16:33発の9429Dの車内を見ていると、そんなに混雑していない。この感じだと、三江線最後の列車となる19:08発の浜原行き9431Dには、余裕で乗車出来そう。
しかし、問題は石見川本までの途中駅下車し、折り返し江津行きの9430Dに乗らないといけない。この9430Dが多客で乗車出来ない事が予想できた。乗車出来ない場合は、代行バス等の救済処置があるのがわからないことが最大のリスクであった。救済処置があれば9431Dに乗っても良かったが、本当にどうしようか?大いに迷った。
ただでさえ優柔不断なので、結論が簡単に出るわけがない。
Twitter等を参考にリアルタイムの情勢分析も実施。石見川本、浜原、三次では相当ヤバい混雑になっているらしい。
9431D~9430Dに乗り継ぐための具体的な時刻は、時刻表を見て頭に叩き込ませる。石見川本で両列車が交換するため、1分で乗り継ぐのは至難の業。下車するのは1駅手前の因原と決めるが、果たして9430Dの車内に入り込むが出来るのか?・・・・・・・非常に厳しい状況になる事は確実であった。
出た結論は、「リスクが高すぎる事」。乗りたい気持ちも非常に強かったが、ここはリスク回避の無難な道を選択した。

↑時間があったので、パレットごうつへ。三江線の最終列車を待つためだろうか?ロビーにあるフリースペースには大勢の人がソファーに座っている。
地元の人が撮影したさまざまな三江線の写真が展示。SL時代からキハ120まで、本当にイロイロ。今や見る事が出来ない国鉄型の気動車が主力だった時代、貨物列車があった時代の三江線は、これまた今とは雰囲気が違うはずだ。
休憩するために近くの飲食店に向かおうとすると、江津駅前ではナント号外が配られていた。「山陰中央新報」の号外で、三江線最後の日の事が報じられていた。
この号外によれば、18:20からJR西日本の米子支社長、江津市長、地元選出の国会議員等の偉い人が参列しての「三江線お別れイベント」が開催されるともあった。
いよいよ、三江線も最後の時を迎えてしまった・・・・・・・・・・。

↑三江線最終列車となる19:08発の浜原行き9431Dが発車する50分前、すなわち18:15には再び江津駅のホーム全体が見渡せる場所へ戻ってきた。
9431D発車時には江津駅長による発車合図を行う。駅長が立つと思われる場所の真横で待つ。発車までの間は、三江線の思い出を改めて、語ってみることにした(詳細後術)。 ホームの浜原方では同業者(鉄道ファン)が20人前後スタンバイしていたが、まだこの時点では”撮影会状態”にはなっていない。
ホームでは、既にお客の誘導が行われており、目的ごとにどこに立つべきか?示されていた。 それによると、9431Dに乗車せずに写真や動画等を撮影する場合は、浜原方の広いスペースに。9431Dの先頭部分が来るところには、「出発式」を行う会場となっている事、マスコミ用の撮影場所も確保されていた。9431Dのドア付近は乗車希望者が並んでもらう事になるが、18:20の段階では、ナントほとんどいない!これは最終列車ならぬ姿だ。
★三江線最終列車江津駅発車直前。私からのメッセージ
段々と陽が暮れてきた。最後は、本当にゆっくりと三江線の姿を見守ろうとした。
まずは、今日(3月31日)三江線最後の日に沢谷駅をもって全駅訪問出来た事。三江線全駅訪問は絶対に無理だと思っていた。最後10駅くらいは残ると思っていた。全部訪問しようと言う目標は何も立てていなかった。 「訪問できない駅があるならば、それで良い」とさえも思っていた。 でも、現場に行ってみると三江線の駅訪問が面白くて面白くて・・・・・・たまらなくなった。 列車本数が少ないので、1つの駅で次の列車が何時間もボーっと待つよりは、徒歩で次の駅に進んでしまえば、その間に三江線車内からは見えてこない、三江線沿線の本当の姿が見えてくるし、何もない静かな田舎、そして出会う人1人ずつが挨拶してくれる・・・・・・こういう温かさが本当に良かった。人と人のつながり、心を豊かにさせてくれる雰囲気が三江線沿線にはあった。 それは、私のこれからの鉄道言う好きな事、価値観の変化、人間的な成長にもつながると思う。
「ローカル線だから(本数が少ないから)全線乗る事も大変」なんて思わなくなってしまったのも本音。 確かに三江線のダイヤを見ると、列車だけで多くの駅に行くのは難しい。でも、1回で、1日で多く行くのではなく、何回かに分ければ良いだけで、「ここは良い所!」と思った所は、繰り返し何回も訪問するけど、逆に「ここは自分には合わないなぁ・・・」と思った所は、それっきりになってしまう。それはその人の考え方、価値観、感受性、好みなどなどによって決まって来るんだろうが、「自分には合わない」ならば、それで良い。
1回乗って三江線の事が好きになって、毎回テーマを決めて訪問する場所等を決めていた。時刻表と格闘する事は当たり前、当日になって予定と全く違う経路に急きょ行く事になるのも当たり前・・・・・・・でも、それが楽しかった。楽しかったことが三江線全駅訪問と言う事に向けて、意識しないうちに頑張れたのだと思う。 嫌いな事は頑張りたいと思わない。積極的に止めたい(辞めたい)くらいだ。 でも、好きな事はとことん頑張りたい。無我夢中になって頑張れたのだと思う。そうすれば、成功とか結果として現れてくるのだろうと感じた。世の中、計算通り行かない事が多いが、好きな事はどんどん伸ばして行きたい。そんな事を三江線全駅訪問の経験から学んだと思う。
三江線は全通して43年で廃線と、鉄道では短い命であったが、お客が少なくても、沿線が過疎化であっても、三江線自らが「つまらない」と自分では思っていなかったはずだ。客数は少なかった。でも、多く人々の希望や夢、そして人生を運んだ。その歴史が遂に今夜途切れてしまう。ホームからは「10分遅れ」の放送も聴こえてきた。ラストランで乗車や撮影する人々に最後まで、夢や希望を届けてほしい。そして安全運行で・・・・・・・。
★遂に三江線最終列車、9431D浜原行きが発車してしまった
ホームからは、「いい日旅たち」が流れてきた。 JR西日本のテーマソングとも言える曲であるが、「これが流れて来ないとJR西日本ではない!」と思いつつも、さらにたくさんの思い出とか三江線に対する想いが出てきて、涙が止まらなくなってきた。
泣いているのは少なくても私だけで、他に泣いている人はいないようだった。他の駅や列車内では少なからずいたと思う。 しかし、現場の雰囲気としては単にそれは「イベント」として、「ネタ」として、「儀式」として見られているように感じた。これが悔しい。
”三江線が亡くなる”瞬間であって、人で言えば生きているのか?死んでいるのかわからない状況で、まさに”生死をさまよっている”瞬間である。 三江線の魅力を知ったのは、せいぜい最後の2年くらい。もっと早くに魅力を知っていれば良かった・・・・・・・と。痛恨の極みであるが、でも最後の2年たっぷり楽しませてもらったのは、幸せな価値ある時間でもあった。


↑19:06、定刻より10分遅れて、江津止まりの9428Dがゆっくりと入線。この瞬間、無意識的に泣いてきた。涙が止まらない。とても悲しい。まさに”亡くなる瞬間”が来てしまった。思い出が一気に出て来た。


↑すでに江津駅のホームでは、本当に多くの人が三江線最後の列車を迎えた。最後にはこんなにもたくさんの人が来てくれた・・・・・・・本当にうれしかった。
ホームからは「いい日旅たち」が大音量で流れてきた。9428Dとして乗車したお客は一斉に下車を開始。下車完了後に車内整備を行い、浜原行きの三江線最終列車9431Dに変わる。

↑浜原方の先頭車にヘッドライトが点灯。いよいよ三江線江津発の最終列車9431Dとしての発車準備が完了。


↑発車直前に、出発式が行われた。関係者が「ありがとう三江線」と書かれた横断幕を出した。
普段三江線で通学していた高校生が感謝の言葉を述べて、9431Dの運転士に花束を渡した。そして、運転士は運転席へと入った。
ホームからは、「発車時に「ありがとう」とみなさんで言ってください」と呼びかけられた。

↑いよいよ発車の瞬間だ。この写真ではわかりくいと思うが、運転席の隣に江津駅長が立って、腕を真上に挙げた。
19:15、本当にいつまでも続く長い警笛が鳴り響いた。そして9431Dは少しずつ江津駅を発車。「ありがとう」の声も飛んできた。私も大きな声で言った。



↑浜原に向けて、9431Dは旅立ってしまった。駅長は9431Dが消えるまで手を振り続けていたのが印象的であった。
信号機が赤に変わった。
この信号機が青に変わる事は二度とない。
「全てが終わってしまった・・・・・・」
そう思うしかなかった。喪失感でいっぱいであった。
しかし、この日も、三江線が最後に走った夜から1年が経過する今でも、内心では三江線はまだまだある路線で、「三江線が消えた」と思う事は、一生ない。
現時的に消えてしまっただけで、心の中では走り続けているし、三江線の楽しかった思い出はすぐに思い出せる。 Twitterを見ていると、今でも(2019年7月)三江線関連の話題が尽きる事はない。現実としては廃線となって、放置された線路や駅施設がそのまま残るだけだが、そんな中で三江線があった記録を後世に残して行こうとする取り組みやイベント等がまだまだあるのだ。
だが、とても複雑な気持ちで、三江線が最後に走ってから4日後には、日高晤郎さんが亡くなられた。私としては、短期間に楽しみだった存在、人生の教科書ともなる素晴らしい存在を亡くしたと言う喪失感は大きく、精神的なショックも耐えられないほどだ。
三江線には、「本当にありがとう」と言いたい。私が死んで天国でも、また楽しませてくれることを期待して、また三江線に会いたい。
82回目に続く。
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