【常磐線132M原ノ町→浪江/浪江→富岡代行バス】東日本大震災で被災した鉄道を見る⑭
もくじ
★仙台からの常磐線は原則として原ノ町で浪江行きに乗り換え
【訪問日】2018年1月5日(金)
【列車番号】132M(浪江行き)
【時刻】原ノ町16:04→浪江16:23
【車両】仙台の701系F2-10編成

↑常磐線仙台からの列車は、多くが原ノ町止まりとなる。新地から乗った246Mは新型のE721系1000番台(P4-2編成)で、既存の0番台と大きく変わった所はないように感じた。

↑広い構内とホームの原ノ町駅。震災前は上野~原ノ町の特急「スーパーひたち」が運行されており、震災後も被災して稼働する事もない651系や415系が長期間留置。保線関係だろうか?ホッパー車も隅の方に止まっていた。

↑改札口は自動化されており、「北海道&東日本パス」を投入して出場。

↑駅には代行バスの時刻表が掲載。富岡~浪江の途中駅は無停車で、一部は富岡~原ノ町直行便(小高駅経由)も存在する。
前回のブログでも書いたが、ダイヤは富岡、浪江で列車と乗り継ぎ出来るように作られているが、接続保証されていない。バスが渋滞等で遅延した場合は、列車は時刻になればそのまま発車してしまう事になっている。また、代行バス乗車口できっぷを購入するのではなく、事前に鉄道の駅で購入する事も推奨されている。


↑浪江行きの132Mは1時間前からホームに停車。15:40頃に来ると既に自由に乗車する事が出来た。サボもしっかりと「浪江」と表示。単に「臨時」とか「普通」とか「無表示」になっていなくて良かった。

↑発車までまだ時間があったので、空席だらけ。原ノ町からは10人程度が乗車し、248M(15:58着)と仙台方面から接続するため、約15人程度が乗り移ってきた。ワンマン化されていない。132Mも車掌が乗務。 お客の様子見ていると、スーツケース等の大きな荷物、土産物もあるため、浪江から代行バスに乗車すると言う事があからさまにわかる。 同業者(鉄道ファン)もわずかながらいたが、仙台~東京へ「18きっぷ」や「北海道&東日本パス」利用であっても、不便な常磐線経由を選択する人は極めて少ないと見えた。
原ノ町を出ると大きく雰囲気が変わった。震災で被災したままの状態になっている建物が極端に増えた事。「手つかず」だ。 磐城太田駅は相対式ホーム。昔からの建物が立ち並ぶが、人気(ひとけ)は感じられない。人が消えてしまった雰囲気も。
震災被害はまだまだ終わっていない事を実感したが、この先はもっと深刻。 特に徐行する事はなく、所定の速度で走行。原ノ町からいわき方面に対してはSuica等の交通系ICカードは利用不可。車掌が精算する姿も。 駅間走行中車掌は多忙で、途中駅からの乗車もあったので乗車券の販売やその他精算業務も。 車窓を見ると、建物が多く、大きなホームセンター(コメリ)も見えてくるが、すごく静かな雰囲気。つい最近営業再開した区間で、桃内駅の架線柱には2016年7月に設置された事を示すプレートも。
★常磐線代行バスは福島第一原発付近の「帰還困難区域」を走行。「全てを放棄」した街と化していた
【便名】浪江16:28→富岡16:58





↑浪江に到着。完全に「仮の状態」。実質的に列車が入れるのは1線のみ(3番のりば)。ビックリするほど静か。
「来て良い街なのだろうか?」と真面目に思った。ある意味罪悪感も。


↑浪江駅前の様子。クルマが数台程度しか止まっていない。(写真に写っていないクルマもあり) クルマは「不動車」になっているものもあり、震災以降放置されたままなのだろうか?
建物も震災当時のまま。完全に「時間が止まった街」である。浪江駅周辺に関しては2011年3月11日のまま。 とりあえず鉄道は通しておき、受け入れる準備だけ出来た。街づくり、復興はこれから・・・と言った所であるが、実際には福島第一原発事故でそもそも「戻ってくる土地でない」から、いくらふるさとでも戻りたくないのが本音なのであろうか?

↑列車代行バスが既に浪江駅に止まっていた。乗車時にきっぷを見せる。自由席。最後列が空席だったためここに着席した。30人程度乗車し発車。 基本的には国道6号線を道なりに進む経路だ。しかし、「帰還困難区域」のため途中で乗下車できない事、放射性物質が今でも高濃度で飛散しており人体に有害と言う事もあって、窓を開ける事は禁止であった。
完全に人が消えた。
当然ながら人通りはない。クルマが時々すれ違う程度。交通量は極端に少ない。信号機は黄色い点滅。
まさにゴーストタウンと化していた。
建物があるが、震災の揺れで壊れたまま。直す気配もない。たまたま通りかかったガソリンスタンドは、今や存在しない元売り名が堂々と掲げられていた。何もかもが2011年3月11日当時のままであった。
「帰還困難区域」は立入出来る場所が制限されており、国道6号からの側道は頑丈なバリゲートで入れないように塞いでいた。大きな交差点には警察車両に警察官も配備されていた。スマホを見ると、ずっと「3G」のまま。今や「4G」の通信規格が基本であるが、「帰還困難区域」では電話やネットと言う通信インフラも満足に整備されていない。 日没を迎えた。暗い。とにかく灯りがない。真っ暗な街になった。
・・・「帰還困難区域」は完全に手つかずの状態。JR東日本は2020年には富岡~浪江も鉄道運行を再開したい方針だが、復興はこれから。福島第一原発の廃炉作業は今後30~40年かかる事業なので、今のままの街ではいけない。鉄道再開を機会に新しく元気ある街を取り戻して欲しいと思うしかなかった。見ていて心苦しい。どの被災地でも言えるが、今度訪問した時にはどこまで復興しているか?楽しみの所もある。
15回目に続く。
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